<つまこい法律事務所・弁護士 佐久間 大輔>
従業員が自殺してしまい、それが業務に起因する場合、企業は損害賠償責任を負う場合がある。内部環境においては、当該従業員の上司や同僚が強いショックを受けたり、自責の念を抱いたりなどして、新たなメンタルヘルス不調が発生する可能性もある。これらはボディーブローのように、企業の業績へ影響を与えることになるだろう。従業員が健康的に働くことは、個人のパフォーマンスを向上させるだけでなく、その集合体である企業組織全体の持続可能な成長につながるということを忘れてはならない。そこで今回は、従業員の健康保持・増進と経営との密接な関係を改めて解説してみたい。
◆利潤を重視するか、従業員の健康を重視するか
会社は、商行為を行う法人だ。それゆえ、営利を目的とする活動を行う。
株式会社の経営者である取締役は、株主総会で選任される。会社と取締役との関係は委任契約関係にあり、取締役は会社に対して善管注意義務を負う。
取締役は、利潤を追求して会社の利益を上げ、株主に対する剰余金の配当を最大化することが使命の一つとなる。経営者(取締役)が利潤重視の立場に立つことは、ビジネス倫理の観点からしても完全に否定されるべきことではないだろう。
しかし株主への分配を最優先にし、利潤の最大化を短期的に図るため、従業員の生命や健康を犠牲にしてよいはずはない。経営者は従業員を、株主の利益という目的の手段としてのみに扱ってはならないのだ。
それでは、コンプライアンスを意識していれば、経営者は利潤重視でもよいのか。
このような見解は当然あり得る。なぜなら労働法で言えば、労働基準法と労働安全衛生法は、労働者が人たるに値する生活を営むための最低基準を定めたものである。よって「この最低基準だけを遵守していればよい」と言えないこともないからだ。
◆メンタル不調による「損失」も対策による「利益」も、どちらも目に見えにくい
冒頭で述べたように、従業員がうつ病により自殺し、それが業務に起因する場合、会社は遺族に対して高額な損害賠償責任を負うことがある。会社が訴訟対応に費やす労力も無視できない。
そこまで至らないとしても、従業員がうつ病を発病すると、思考力や集中力が低下する。それとともに欠勤、休職、退職した場合には、職場全体の労働力の損失が大きくなる。
この「損失」を解消するため、リスクマネジメントの観点から、メンタルヘルス対策を実施している企業もある。
ただ、現代の企業経営では、コンプライアンスやリスクマネジメントを実行していくのは当然のこととして、常日頃から従業員の健康的な働き方を追求することが重要である。一人のメンタルヘルス不調者が出たことによる「損失」は、目に見えにくいからだ。
例えば、労働時間を適正に把握することは、賃金不払残業をなくし、従業員の健康管理にかかる法令遵守にもなる。同時に、残業時間が減少し、適正な残業代が支払われると、従業員は趣味やスポーツなどの余暇を充実させることができる。
そうすると従業員は、ストレスを解消して元気に働くだけでなく、余暇での体験から、思わぬひらめきを生むこともあるだろう。
こうしたアイデアが、直接的ないしは間接的に仕事に結びつく。目に見えにくいものではあるが、会社にとって「利益」となり、ひいては企業価値を高めることにつながる。
◆従業員の健康を保持する経営戦略
「経営戦略」を立てている会社は多いと思われる。これを行うためには、まず「経営理念」が確定されなければならない。
従業員の健康を保持するという観点から、従業員の生命や健康が害されるという不幸な事態は、何としても回避するべきである。
そのためには、単に労働安全衛生法令を遵守するだけでなく、従業員の能力を生かして健康に働いてもらうことを事業活動として追求するよう、「経営戦略」として位置づけるべきである。
「経営戦略」においては、自社の現状分析が重要となる。たとえ、外部環境において “顧客ニーズの上昇”や“競合他社の出遅れ”といった取引の「機会」があったとしても、内部環境に従業員の疲労蓄積や体調不良という「弱み」を持ったままでは、攻勢をかけることはできない。
しかも、「弱み」を見誤ったまま環境分析をすれば、経営戦略も現状を認識できていない誤ったものとなるだろう。これでは、会社のステークホルダーである顧客や取引先、金融機関、投資家などに対する信頼が失われることになりかねない。
業界全体で長時間労働が慣行となっており残業代の金額が大きい、また、従業員が健康を害したり疲労やストレスを蓄積させたりして退職することが多く、人材が流出しているというケースもあるだろう。
だが、そのよう場合であっても、長時間労働を防止して残業代を減らすことができれば、コスト面においても競合企業との関係で優位に立つことができる。
労使が一致団結して実行し、従業員の労働時間や健康を継続的に改善するというPDCAサイクルを回しながら、「経営理念」の実現に向けた取り組みをすることが肝要である。
終身雇用制が崩れてきたとは言え、少子高齢化が進む状況下では、従業員に健康で長く働いてもらうことが優良な人材の確保につながり、ステークホルダーにも幸福をもたらすことになる。
一見迂遠とも思える方法だが、こうした取り組みこそが企業価値を高める。これは、今後の企業経営における必須要素とも言えるのではないだろうか。
プロフィール
弁護士 佐久間 大輔
労災・過労死事件を中心に、労働事件、一般民事事件を扱う。近年は、メンタルヘルス対策やハラスメント防止対策などの予防にも注力しており、社会保険労務士会の支部や自主研究会で講演の依頼を受けている。日本労働法学会・日本産業ストレス学会所属。著作は、「過労死時代に求められる信頼構築型の企業経営と健康な働き方」(労働開発研究会、2014年)、「長時間労働対策の実務 いま取り組むべき働き方改革へのアプローチ」(共著、労務行政、2017年)など多数。