産業保健の課題の変遷と今後の在り方を考える
<合同会社DB-SeeD 代表社員 神田橋宏治>
労働安全衛生法(安衛法)が施行されて50年が経過しました。この間労災死亡者が大きく減るなど同法は大きく産業保健に貢献してきました。
しかし、近年になって制定時には想定していなかった問題が大きく浮上してきており、それに対応しきれないいわゆる制度疲労の状態に陥っています。厚労省も見直しを始めました。
今回は労働安全衛生法の50年の歴史を振り返ります。
産業保健の様変わり~労災の防止からメンタルヘルス不調への対応へ
安衛法は元々労働基準法のうち、安全や衛生に関わる一章をまるまる独立させてできたものです。
従って第一条には目的として「この法律は、労働基準法と相まつて、労働災害の防止のための危害防止基準の確立、(中略)を推進することにより職場における労働者の安全と健康を確保するとともに、快適な職場環境の形成を促進することを目的とする」と書かれています。
この法律ができた1972年は、三次産業に従事する人が就労者の50%強、二次産業が35%、残りが一次産業で、特に高度経済成長に従って二次産業に従事する人が増え労働災害などへの関心が高い時代でした。なお、当時の二次産業の従事者数は約1,900万人だったのに対し、現在も1,500万人、就労者中の割合としても22%であり、決して無視できる数字ではありません。
この法律や安全意識の向上で、一時は年5,000人を超えていた労災死亡者は平成27年以来1,000人を切り、現在は年800人台です。大成功と言えるでしょう。一方、制定当時は想定してなかった問題が次々出てきています。
その中の筆頭がメンタルヘルス不調です。2015年からは常時使用する労働者が50人以上の企業におけるストレスチェックの実施義務化などさまざまな対策を講じているにもかかわらず、「仕事から強いストレスを受けている」と答える人の数は50%を超えており、強い精神的負荷による精神疾患の労災の認定件数も年々増加傾向です。実際、産業保健関係者はメンタルヘルス不調者への対応やその復職支援にてんてこ舞いになっています。
高齢化、女性労働者、テレワークなどの新たなテーマも出現
労働者の高齢化に伴い、定期健診の有所見率は上昇しています。またがん、脳卒中等の有病率も高齢化とともに増加し、予防や就労と治療の両立支援が大きな問題になっています。さらに2000年に介護保険制度が成立し、介護職に従事する人々が増えました。介護職の腰痛は産業保健の非常に大きなテーマの一つです。
女性労働者も増加しました。就労する女性の半数以上が月経関連などの女性特有の健康問題で困った経験があるという調査もあります。もちろん安衛法にも女性を保護する規定はありますが、当時は男性が働き女性は専業主婦あるいはパート労働者という家庭が2/3以上でしたので、男女ともにフルタイムの労働者として働く現在にはフィットしていない面があります。
加えて、インターネットの発展と新型コロナウイルス感染症の世界的な流行により急速に広がったテレワークは、50年前には影も形もなかったので、安衛法のどこにも関連することが書かれていません。
一方安衛法には、50人以上の労働者を雇っている事業場では少なくとも一人の産業医を選任し、従業員の中から一人の衛生管理者を置くと書かれています。ところが、これらをコストと考える経営者も少なくありません。衛生管理者には産業保健業務をさせず、産業医には職場巡視を含めて月に1時間程度の活動のみをさせている事業者もたくさんあります。またこういう事実上職場における従業員の健康を守る意識が少ない経営者のニーズに合わせて格安で産業医を仲介する会社も出現している有様です。労働者の健康に投資することにより企業の労働生産性が上昇するという「健康経営®」という考え方に多くの経営者が興味を持っていることと対照的です。
産業保健の見直しが始まっている
以上述べたことからわかるように、安衛法は制度疲労に陥っていると考えられます。これは産業保健に関わっている人の間では共有されている問題意識です。2022年10月からは厚生労働省労働基準局で「産業保健のあり方に関する検討会」が始まっています。
ここで集約された意見が省令や法律に反映され、新たな時代にあった産業保健の在り方が作られることでしょう。人事労務担当者はこれらの流れを継続的にチェックしていくことが望まれます。
また産業医を選任している事業場では産業医に聞くのもよいでしょう。まっとうに産業保健に取り組んでいる産業医であれば的確なアドバイスをくれるはずです。
※「健康経営®」は、NPO法人健康経営研究会の登録商標です。
プロフィール
1999年東京大学医学部医学科卒業。東京大学医学部附属病院助教などを経て、2011年4月から医療法人社団仁泉会としま昭和病院内科医として勤務。2015年に産業医事業を中心業務とする合同会社DB-SeeDを設立。2018年11月~現在 日本産業衛生学会代議員